





甲骨文字「豊」
「豆」(とう)という器に食べ物がたくさん盛られている形。
古代文字を通して、古代人のものの見方考え方が伝わってきますが、文字の字源にふれるたびに人類の暮らしが、衣食住はじめあらゆる分野でより良く発展し続けていると感じます。
「豊」の文字で実感するのは、やはり「豊かさ」の概念の変化です。
原始古代の自然環境は過酷で、常に生存の危機に晒されていたので、いかに身を守り、いかに食べものを確保するかが人生そのものだったと思われます。
そんななかでは、この古代文字が示すように、たくさんの食べものが盛られている、これこそがこの上なく豊かな光景だったのも頷けます。
食の意味も歴史的に変わってきています。
調理が一つの文化となり、2013年にユネスコの無形文化遺産に登録された「和食;日本人の伝統的な食文化」は「自然を尊重する」という言葉がキーワードとされています。
無形文化遺産としての日本の伝統的な食文化の特徴として、「多様で新鮮な食材とその持ち味の尊重」「栄養バランスに優れた健康的な食生活」のほかに「自然の美しさや季節の移ろいの表現」「年中行事との密接な関わり」という点も挙げられています。(情報源:令和2年,文化庁参事官(食文化担当)資料「食文化をめぐる状況いついて」、および、農林水産省公式サイト)
自然と格闘しながら生きながらえてきた原始古代から、食文化が世界遺産になってしまうなんて驚異的な進歩です。
ところで、私はいつも、出来るだけデフォルメしないで、白川先生の字典に示された、史料の文字の特徴を捉えられるように配慮しながら古代文字を書いています。甲骨文字の「豊」の上の部分は、穀物類が盛られているらしいのですが、麦の穂先のような形です。
でも、「¥」に見えますよね⁉︎
食べ物に満たされた後の世の人たちが、たくさん盛られていると豊かと思えるモチーフが、図らずもこんなところにっ‼︎
ちなみに、「円」を「¥」と書く由来、Wikipedea情報ですが、明治時代に日本の通貨「日本円」が制定された時、欧米人から「円」は「en」ではなく「yen」と綴られ、ドルの習慣に従って、頭文字Yに同様の二重線を入れたとする説が一般的だと載っていました。
諸説あるようですが、いずれにしても、今のように、お金が暮らしの豊かさを左右する世界もそう長くは続かないようです。
ときどき引用させていただいている吉濱ツトム先生によれば、お金は、お互いに足りないものを調達するためのマッチングコストを節約するためのもの、つまりお金の本質は「欠乏解消」のためにあったものでした。ところが、人間の欠乏が解決される時代を迎えれば、お金の価値は溶けていきます。
そもそも、人間が生きる上での最大の問題は、食糧やエネルギー、住居などの欠乏への恐怖と、人間関係やメンタルなど脳の神経活動上の問題です。これらは科学技術によって解決されていきますが、科学技術の値段が高く、その恩恵を得られないことも問題でした。
しかし、科学技術は進化すればするほどコストが下がっていきますから、将来的には、フリードリンク、フリーフード、フリーエネルギー、フリーハウスを可能にする科学技術も確立され、人間の脳の神経活動の上の問題についても、メンタルを保つ技術はすでに開発されつつあるようです。しかもそれらの開発が進むにつれて安価になっていきます。フリードリンク、フリーフード、フリーエネルギーでメンタルの安定を保てる時代はもうすぐそこまできています。(吉濱ツトム著『アセンションか滅亡か』徳間書店,2024, pp.217−229をもとに。)
最初に、お金の価値が溶けていくという見方を知った時は衝撃的でした。
しかし、確かに、昔は高価だったコンピューターも今では安価に入手できるようになりました。また、特別の料金が必要だったコンテンツ、例えば音楽やノウハウやさまざまな情報も、今ではYoutubeで誰もが無料で手に入ります。子供の頃と比べたら、夢のような生活が実現しています。
こうした変化をよく観察してみれば、吉濱先生がおっしゃっているように、凄まじい勢いで科学技術が進歩し、今は高価な科学技術もやがて無料で享受できるようになり、「お金の価値が溶ける」のは、むしろ当然のことだと思うようになりました。
さて、お金がものを言わない社会が到来した時、「豆」という器に何が盛られるのでしょうか…。
プライスレスだけど、手に入れられないもの???
あるいは、豊かさをはかる概念そのものがなくなっているのかも…。
伊勢神宮内宮域内の神苑