





「包む」「結ぶ」「編む」「折る」「畳む」……
文字や模様だけでなく、日本人は包んだり結んだり、日常生活の中のさまざまな機能的な行為にも、いろいろな形にも、多くの意味を込めてきました。そのような多様な場面の多様な意味が受け継がれて、豊かな日本文化をかたちづくっています。
こうした伝統文化を生んだ土壌として、日本は自然豊かで四季があり、昔は自然と調和して豊かに暮らしてきたから…というように説く文章をしばしば見かけます。そういう私もかつては、昔の日本はユートピアであったかのようなイメージで、安易にこのような表現を使ってしまっていた時期もあります。(ごめんなさい🙇♀️)
それが、何年か前のこと、国土交通省の研究官で土木学会の会員でもある方から、日本の地層についてのお話をうかがって、昔はユートピア、みたいな捉え方が一瞬のうちに払拭されました。
このような表現がいかに事実と異なっているかということを思い知らされた実にありがたい機会でした。
その先生によれば、日本を含む東南アジア地域は、世界の中でも類を見ないほど、とりわけ地質が脆弱な地域なのだそうです。
地質学的にみて、このような脆弱な地層の上に国土が形成されるというのはあり得ない驚異的なことだとか。
しかもこれだけの文明社会を築き上げ、維持してこれたのは、ひとえに日本人が繊細に丁寧に自然の特性と向き合いかかわり、なんとか自然の中でも生き長らえる知恵を獲得して、積み上げてきたからであって、もともと自然と調和していたなんて悠長な話ではなかったとおっしゃっていました。
(類を見ないほど脆弱な地質ということで、少し不安になりそうですが、脆弱な地質で生きる知恵に加えて、自然災害からの影響を未然に最小限にとどめ、安全に暮らしていける様々なテクノロジーもすでに開発されてきています。大震災などの多くの犠牲から得た貴重な学びもまた、後世の安心のために生かされていますから、日本は災害国、火山国だから被災してやむをえないと思うことはないはず…!!)
更に、その先生のお話で興味深かったのは、そのような日本人と日本の自然とのかかわりも、日本人が蓄えてきた生存の知恵も日本人はほとんど自覚がないにもかかわらず、多くの日本人が日本の自然を知っていると思い込んでいる不思議…日本人ほど、自国の自然を知らない国民は珍しいとおっしゃったことです。
この話はある会合の合間のインフォーマルなお話で、聞きかじったお話の受売りの域を出ませんけれども、なるほど、、、確かにそうだと思ったのです。そういう知恵の蓄積が日本固有の伝統文化の土台を成しているのでしょう。
日本最古の地層、5億年前のカンブリア紀の地層の上にある霊峰「御岩神社三本杉」(茨城県日立市の天然記念物)
幹の周囲8m、高さ50m、推定樹齢500年。
この辺りに👺天狗が棲んでいたという言い伝えがあります。
日立市の御岩神社の御祭神は、国之常立神・大国主神・伊邪那岐神・伊邪那美神・大山祗神 のほか、20柱をお祭りしています。
修験道の修行をするところでもあったそうです。
下の写真は、険しい山道ですが、御岩神社の表参道となっています。
神社巡りのバスツアーでしたが、登山コースでもありトレッキングシューズが必要です。
それから、体力も必要。
初秋に訪れ、冷んやり山道で、時折小雨も降っていましたが、汗だくになりました!
さて、地質学の研究官のお話をうかがったのち、ここでも時折紹介させていただいている吉濱ツトム先生のエビデンスに基づく多角的で本質的な物事の捉え方や、認知バイアスについて、書籍や様々な動画(Y’s spiritual/Yoshihama Tsutomu channel/会員制 Y’s universe随時入会可)などを通じて学ぶ機会に恵まれました。
ものの見方を根本的に学んでみると、この国土交通省の研究官の先生のお話があらためて腑に落ちました。
よく見渡してみれば、昔の生活がいかに大変であったかということ、それに対して今ではいかに楽に生きられるようになってきたかは、学会のアカデミックなお話を持ち出すまでもなくあらゆる面で浮き彫りになっています。「日本は自然豊かで四季があり、昔は自然と調和して豊かに暮らしてきた」という言説は、日本人の自然観についての一般的な表現というだけではなく、モノの見方考え方が盲目的になった時に陥りがちな一面、「認知バイアス」があからさまに象徴されたものだと思えてきたのです。
さらに、あることに気がつきました。
日本の伝統文化に息づく様々なスピリチュアルな意味や祈り、それらが込められた象徴的な物事が生まれ継承されてきた理由…
こんなに地質学的に脆弱で過酷な日本の自然環境の中で、文明の力をまだ持たなかった昔の人々は、目に見えないものの力を畏れ、ひれ伏すしかなかったのだということ。
ありとあらゆる物事に無事でありますように、よりよくいられますようにと祈らずにはいられなかった昔の暮らし…。
こうした昔の自然との闘いの歴史こそが、繊細で気品があって、豊かな意味を象徴する伝統文化を作ったのではないかと思いました。
いずれにしても、今享受できるさまざまな日本文化の所以が、四季がある豊かな自然との調和へのノスタルジーなどではない、人間が生き、発展してきたプロセスの根拠なんだなと思うようになりました。
今では、日本の伝統文化の繊細な美しさを思うたび、昔の人々の日常生活に「お疲れさまでした!」という感謝の気持ちで、より一層、日本の伝統文化が好きになりました。
日本という国に、この時代に生まれてツイテます🐦⬛
いつか再び、昔の人々の御魂に会うとき、日本の美しい伝統文化をお土産に持って行って、自然との闘い、生存のための闘い、大変な過去が、こんなふうに実を結びましたと伝えねばと思います。
というわけで、実を結ぶの「結」。
古代文字「結」
古代文字の「結」は、声符を「吉」とする形声字です。
『字統』によれば、「吉」にとじこめる意味があり、結ぶということも、そこにある力をとじこめる意味を持つものであった。
ここでいう「とじこめる」とは、よろしくないものを封じるのではなく、良いものを守る意味合いがあります。
ちなみに、「吉」とは、「口」(さい)という祝祷を納める祭儀の聖器に戈のような農具の重しを置いて、その霊力が逃げないようにしていることを示す文字です。
後漢代の辞書『説文解字』には、「結」は「締(し)むるなり」とあって、締結の意。紐を結び合うことは、古代も歌謡では愛情を約する行為として歌われており、後世にも結不解(けつふかい)、結綢繆(けっちゅうびゅう・結びまとう)のような呪飾が喜ばれた。
ということです。(『字統』より一部抜粋し、「吉」の意味補足)
さらに、「結」という文字がどのように用いられ、その背景にどんな意味があるのか調べはじめたら、「結」だけでBlog100回は連載しても足りないくらい興味深いことがたくさん出てきました。
いずれ、いくつか紹介できればと思いますが、今日は、ザックリと「結」のイントロダクション的なことだけ。
京都で200年続く味噌蔵「本田味噌店」の公式サイト(https://www.honda-miso.co.jp/aa_musubu.html)には、「古都の美学を今世に」というコーナーがあり、そこに「結ぶ」という言葉の説明が、「全能なるものへの期待」というカッコいい小見出しつきで、次のように書かれていました。
全能なるものへの期待
手で結ばれた飯を「おむすび」と呼びます。それは、食べやすいかたちになったというだけでなく、もっと精神的な郷愁を感じさせる食べ物です。“結ぶ”という言葉は、奈良時代、「むすひ」と清音で発音され、「むす」は、『産』『生』という意味を持ち、「ひ」は霊力を表す意味であったとか。
天地万物を産(む)しなす霊妙な神を「むすびの神」と呼んだいうことです。
「むすぶ」という言葉には、「契り」や「結実」、「完結」などという言葉になって完全なもの、揺るぎないものといった意味で今も私たちの暮らしに息づいています。男と女の「結び」は、完全でない者が一体となることで完成され、実を「結ぶ」とは、ことの完結を祝う時の言葉です。
今も私たちの暮らしの中で、祈りの心を表わす時、物と物を結び合わせる習慣が残っています。
“水引き”や“しめ縄”などがそうですし、おみくじなどを枝に結ぶのもこんな日本人の原像が残っているからなのかもしれません。
素敵ですね。
こんなふうに書かれたら、「昔の日本はユートピア!!」の幻想にハマってきたのは仕方ないかーと、早速自分をゆるしました😆
(この文章に、認知バイアスがあると言っているのではなく、社会的なことを見る時、心地よい面、素敵な面にコミットすると、それがあたかも全てであるかのような印象を勝手に抱いてしまうな…と、素敵な文章読んで個人的に思った次第です。)
仕事からの帰り道、空が今日も神秘的でした。
今日もがんばったので、贅沢コーヒー✨
猿田彦珈琲店のドリップバッグ「みちひらきブレンド」と「猿田彦のデカフェ」をいただきました。(猿田彦珈琲は今では普通のスーパーマーケットでも買えるようになりましたが、「みちひらきブレンド」は猿田彦珈琲店店頭とウェブショップしか買えず、他のものより価格が高いので、私にはちょっと贅沢品です)